京の散歩道

〜娘に贈る、哲学ノート〜

存在と自由の関係について

久しぶりなので、昔読んだ本について、少し書こうと思う。といっても、これは私の長年の疑問の中心テーマだ。すべては、ここから始まったとも言える。

先に断っておくが、これは哲学「ノート」であり、個人的な思索のためのメモにすぎない。

さて、最初に、今はもう知る人も少ない、「フォイエルバッハ論」のつとに有名な一節を引用しよう。

宗教は、ひとたび形成されると、あらゆるイデオロギーの領域で伝統というものが大きな保守的な力であるように、なんらかの伝来の材料を含んでいる。しかしこの材料におこる諸変化は、階級諸関係から、したがってこれらの変化をひきおこす人々の経済的関係から、生じるのである。(中略)ところでこのような歴史観は、弁証法的な自然観があらゆる自然哲学を無用にし不可能にすると同じように、歴史の領域で哲学を終わらせるものである。もはや問題はどこでも、連関を頭のなかで考えだすことではなくて、諸事実のうちにそれを発見することである。かくして自然と歴史とから追放された哲学にとって残るものは、なお残るものがあるとすれば、純粋な諸思想の領域、すなわち、思考過程の諸法則にかんする理論、論理学と弁証法だけである。(『フォイエルバッハ論』(エンゲルス著、松村一人訳 岩波文庫 p83-84)

目次は以下のようになっている。

序文
一 ヘーゲルからフォイエルバッハ
二 観念論と唯物論
三 フォイエルバッハ宗教哲学倫理学
四 弁証法唯物論史的唯物論
付録
フォイエルバッハにかんするテーゼ(カール・マルクス

正式には「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結」というタイトルで、遠大な構想にしては、100ページにも満たないパンフレットのような本ともいえるが、それだけに、「ああ、そうなのか」と若かった私を煙に巻くのには、十分だったのかも知れない。

まとめていうと、哲学は、意識と存在の関係について、合理的な説明をめざす唯物論の立場にたって、これからは、科学と政治の分野で、この世界と人間のあり方を明らかにしていこう、ということだと思う。

フォイエルバッハにかんするテーゼ」は、その11で次のように締めくくられている。

哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである。

このテーゼを、かなり理路整然と、整理した哲学者がいる。日本唯物論研究会の創立メンバーの一人である、大阪唯物論研究会の故森信成(大阪市立大学教授)である。

もし環境が人間の意識を決定するというなら、人間のなかにみずからおかれた環境を変革する意思が生まれるのはいかなる理由によってであるか・・・(中略)・・・理論は人間の主観から独立な外なる客観的存在の科学的反映として成立するものであり、他方、思想は人間の主観に利害関心、衝動、欲求、理想等々として反映されるかれらの肉体的組織や社会=階級的関係にもとづく認識として成立する。・・・(中略)・・・理論はそれが思想化されるとき、すなわち、人民の意欲と欲求のうちに生き生きとあらわれている現実の生活のそれぞれの時期と場所における特殊な諸条件と実践的課題を正しく反映し、解決の具体的な原理と方針とスローガンをうちだし具体的な見通しを与えるとき、はじめて実践性をもち、説得力のある、大衆を組織し、動員し、変革する「一つの物質的な力」となり、現実の不可分の一構成部分となる。」(『マルクス主義と自由』(森信成著 合同出版 p62-67)

素朴ではあるが、これ以上明解な存在と自由の関係についての説明は出来ないだろう。事実は単純なものなのだ。

しかし、その後も、ベルグソンハイデガー、メルロ・ポンティ、フーコーサルトルレヴィナスドゥルーズデリダ、最近では、ガブリエルやメイヤスーと、哲学者の思索は続いている。

それは、いったい何故なのか。

第1には、脳科学の発展を横ににらみつつ、思考そのものを合理的に把握する、という課題が残っているため。第2には、科学の時代にあっても、平和や環境、自由や基本的人権といったテーマにおいては、社会的な利害関係によって、その評価がわかれるため。第3には、マルクス主義の系譜と思われる旧東側イデオロギーの質の悪さ(権威主義=非合理主義、集団主義)への当然の反発、批判のため、だったのではないかと思う。

あたかも、来るべきルネッサンスが、ビザンチン帝国で準備されたごとく、やはり自由闊達な議論なしに、思想の深化というのはあり得ないのだ。

国家独占資本主義の危機が指摘されて、1世紀になるが、その間に繰り返されてきた幾多の戦争も、恐慌も、格差の拡大も、まさに資本主義経済が生み出してきたものであって、世界のマネーが米国経済の20倍、全世界のGDPの倍近くになった今日のグローバル経済に至っては、もはや考えうる国家レベルの政策によっては実質的にコントロール不可能な世界となっているのである。

日本はアジアの辺境、今は1億2千万人の人口を抱え、GDP世界3位、軍事費世界9位(防衛費2倍なら3位)だが、少子化の流れは、あと数年で日本のこうした世界での存在感を「圧倒的に」小さいものにするだろう。

別にイギリスもフランスも、7千万人くらいじゃないかと、実は私も考えていたのだが、イギリス連邦(26億人)、フランコフォン(3億人)ということを考えてほしい。ちなみにドイツは8千万人だが、かの国はEUの覇者である。

1991年の東西冷戦の終結に続いて、2022年は大国間の国際協調路線の終焉=ブロック経済化の起点と言われる。第3次世界大戦=核戦争のシナリオさえ感じられる情勢である。

しかし、絶望にさいなまれている場合ではない。哲学が何をなすべきかは、「フォイエルバッハ論」以降の哲学の歴史そのものが、指し示している。

第1には、脳科学の発展を横ににらみつつ、思考そのものの合理的把握をめざすこと。第2には、平和や環境、自由や基本的人権といったテーマにおいて、「人類的視点に立った」価値観の確立をめざすこと。第3に、これは余計なことだが、踏まえておくべき課題、「実在した社会主義」のイデオロギーの誤りについての総括、だろう。

過去を知らない人は、3番目はどうでもいい。歴史を生きた人間の責任、というだけである。

ルネッサンスを活版技術が下支えしたように、インターネットは世界的な思想革命を準備しているのかも知れない。世界はまだ、曲がりなりにも「法の支配」の下にあり、合理的思考を妨げる者は、すでに少数派だ。(油断は大敵だが)

科学的思考に、哲学者がついていけていない状況もあるが、科学は本来開かれたものであり、哲学者も相応に努力する必要がある。

「ありえたかも知れない、もうひとつの近代」とは何なのか。その解は、きっと今日の哲学的課題を解く、鍵になっている。

私にはそう思えるのだ。

 

余談

エンゲルスが「フォイエルバッハ論」を書いたのは、135年前の今日、2月21日らしい。その後の哲学の迷走を準備したのは、かのエンゲルス自身かも知れないが、彼にとっては案外そんなことはどうでもよくて、彼の関心はむしろ今日の計量経済学量子力学宇宙論脳科学に向かうのかも知れない。